気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

東福寺龍吟庵 上

 東福寺の中心伽藍を一周して、庫裏の背後へ回ると、上図の塔頭龍吟庵(りょうぎんあん)の入口にあたる偃月橋(えんげつきょう)が見えてきました。

「ついにやってきたよ」
「ええ、来ましたわねえ」

 感動しつつ、偃月橋を指差しつつ話し合うU氏夫妻。お二人の今回の京都散策の一番の目的地がここだったからです。普段は非公開で、毎年11月の紅葉の時期にしか見られない塔頭であるからです。

 

 この龍吟庵へは、U氏夫妻だけでなく、私と嫁さんも初の訪問でした。なので、三ノ橋渓谷に架かる偃月橋を渡るのも、橋からの見事な紅葉の景色をみるのも初めてでした。

「ここもなかなか綺麗ですねえ、通天橋が大人気でいっつも行列で混雑してますけど、紅葉愛でるのは臥雲橋からでもここからでも同じですねえ、むしろ、ここ偃月橋のほうが綺麗かも。橋も文化財ですし

 嫁さんが言う通り、偃月橋は東福寺の三名橋のなかで唯一、国の重要文化財に指定されています。安土桃山期の慶長八年(1603)に旧橋を置き換えたもので、伝承では豊臣秀吉の正室の北政所が龍吟庵に参拝するために建てたとされています。

 

 伝承が本物であれば、北政所は、この三ノ橋渓谷の見事な紅葉を愛でる場として偃月橋を建てさせたのかもしれません。橋にしては立派な、単層切妻造・桟瓦葺きの廊下式の構造であり、橋がそのまま渓谷の展望所としても機能しているからです。

 それでU氏が「寧々さんはここ龍吟庵に何か関わりがあったのかね?」と訊いてきました。

「それがよく分からんのな。少し寺史を調べてみたんやけど、龍吟庵も明治の廃仏毀釈で荒廃して古い史料を殆ど失ってるみたいなんで、詳細がよく分からんの。ここの庫裏や表門も偃月橋と同じ安土桃山期の建築なんで、おそらくは豊臣政権が盛んに行っていた社寺再興や整備事業の一環として、ここの寺も再興整備されたんやないかと思う」
「なるほど、龍吟庵も豊臣政権の支援でいまの境内地を整備した、てことか」
「うん、単なる参拝じゃなくて、北政所が龍吟庵の再興を支援して、偃月橋、表門、庫裏をワンセットで寄進したんやろう、と推測しとるけどな」
「それが真相に近いんと違うか?北政所ほどの重要人物が単なる参拝で済ますわけが無いもんな・・・」

 

 なので、この表門も、偃月橋と同じく北政所の関与を考えたほうが良さそうに思います。建築様式からみても慶長八年(1603)の建立である可能性が指摘出来ます。龍吟庵方丈の正門としての位置にあり、国の重要文化財に指定されています。

 

 ですが、表門は普段は閉じられて「開かずの門」になっていますので、参詣者は右側の上図の通用門から出入りします。通用門というには立派な構えで、いまの寺の案内資料類には何も言及がありませんが、これも表門や庫裏とワンセットで寄進された建物であるのかもしれません。

 

 通用門から中に入ると参道は左に折れて本堂方丈へと向かいますが、その途中で右手に見えた上図の建物が庫裏です。この時は非公開で近くにも寄れませんでしたが、安土桃山期の立派な格式は充分にうかがえました。この庫裏も国の重要文化財に指定されています。

 

 拝観受付で手続きを済ませて、上図の本堂方丈玄関に進みました。ここからが、応仁の乱以前にさかのぼる室町初期の、現存最古の方丈建築遺構の空間になります。本堂方丈は国宝に指定されていますので、この玄関部分も国宝であるわけです。

 U氏が「屋根が新しいねえ、去年に修理が終わったんだろ」と嬉しそうに破風を見上げていました。
 その通り、ここ龍吟庵本堂方丈は、2024年まで四年間にわたって杮葺き屋根の葺き替え修理工事を行なっていたため、今回の特別公開も大変に久しぶりの事でした。

 

 中に入ると、前庭にあたる南庭の白砂敷きの向こうに表門が見えました。庭があれだと表門から出入りするわけにはいかないな、とU氏。

 

 本堂方丈の外縁をたどって西へ回ると、龍門の庭とも呼ばれる西側の庭のうえに紅葉の並木が鮮やかな色彩を放っていました。

 

 嫁さんが「ね、ここの庭って、重森三玲の作ていうけど、なんか味気ないですねえ、本堂は室町の建物でしょ、室町からの庭は無かったんですかねえ」と言いました。

「龍吟庵は東福寺塔頭の第一位で重要な寺やけど、廃仏毀釈でかなり荒廃しちゃって庭園はほぼ壊滅状態やったらしいの。それを嘆いた重森三玲さんが自ら寄付金を集めて、庭園を新たに作庭していまの姿にしたのな」
「ふーん」

 

 本堂方丈の南面の広い外縁です。嫁さんが「現存最古の方丈建築、黎明期の方丈建築ってこういうことですか、宮廷建築の名残があるやないですか」と感動していました。

 その通り、龍吟庵本堂方丈は扁額の銘に嘉慶元年(1387)とあってその頃の建立とされ、現存する方丈建築としては最古の遺構です。
 上図のように南側の広い縁側や前面の建具の蔀戸(しとみど)などに平安期以来の寝殿造の要素が色濃く残っており、方丈の形式が確立される直前の、黎明期の様相を伝えています。

 

 内部を見ますと、室町期に確立した書院造の要素が随所に見られて、寝殿造の要素とあわせて双方の特徴がみられ、過渡期の様相がうかがえます。間取りは北側に三室、南側に三室を拝する典型的な六室仕様ですが、中央の二部屋が脇の部屋より広いのが、標準的な方丈形式とは異なります。

 また、方丈の中心の「室中」にまだ仏壇が設けられておらず、完全な仏堂空間としての方丈形式が確立する以前の古い様相が残されています。

 

 側面や背面の外回りは舞良戸(まいらど)で占められますが、書院造のそれというよりは古式で、このあたりも平安期以来の宮廷建築の要素が残されています。

 嫁さんは、大学時代に京都御所以下の宮廷建築を調べて論文を書きましたから、こういった建築遺構を見ると今でも探究心をそそられるようで、我々4人の中で一番熱心にあちこち観察し、撮影しまくり、係員の説明にも真剣に耳を傾けていました。

 

 亀山法王が滞在されたという部屋です。龍吟庵は、亀山天皇が南禅寺を創建する際に開山として招いた、東福寺第三世住持の無関普門(むかんふもん 大明国師)の隠居所として正応四年(1291) に創建されたのに始まります。

 亀山天皇は無関普門に深く帰依されて出家しましたので、亀山法王として何度も師のもとに通ったとされています。  (続く)