気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

修学院離宮 9 上離宮の千歳橋

 参観路を覆う木立ちを抜けると、目の前にパッと浴龍池(よくりゅうち)の水面が広がりました。上離宮の庭園の中心となる人工の苑池で、上離宮においては最大の規模を誇ります。

 

「見事なもんやねえ」
「ううむ、わが水戸藩28万4千石の誇りたる偕楽園(かいらくえん)にはかかる池は無いのだな、これは完全に負けた気がする・・・」
「いちいち地元の水戸藩と比較すんなよ・・・、勝ちとか負けとか関係ないやろ、比較の対象にすること自体が不敬ちゃうのかね」
「それはそうだが、なんかな・・・、池が無い偕楽園の特殊さを考えさせられるね」
「池が無いって、お前、千波湖(せんばこ)を忘れてないか?」
「いや、千波湖はな、あれは江戸時代にはもともと無かったんだよ、確か昭和の初めまでに水利改善事業とかで桜川をせき止めて造ったんだ」
「え・・・、それは知らんかったな・・・、じゃあ、ほんまに偕楽園は池無しの庭園やったわけか」
「そうだよ・・・」

 

「ところでさ、星野、あの妙ちくりんな中国風の建物があれに見えるんだが」
「ああ、パンフレットによると千歳橋(ちとせばし)とある」
「ほう、旧海軍の空母と同じ名前だな」
「関係ないやろ・・・」
「橋って、変わった橋だね、中国風の感じがなんかここの雰囲気に合ってない気がするな」
「ああ、それは僕もそう思う」
「ここの入口で貰ったパンフレットにはこの橋の説明が無いな」
「うん、宮内庁のパンフレットは大雑把やからな、詳細を知るにはこっち、京都新聞出版センターが出してる概説のほうがええで。コピーあるんで、読んどいたら?」
「うむ、読ませて貰おう」

 

 その説明文によれば、この千歳橋は、二つの中島、三保ヶ島と万松塢(ばんしょうう)との間に架かっています。万治二年(1659)頃の上離宮の竣工時にはありませんでしたが、のちの文政七年(1824年)の離宮改修時に京都所司代より寄進されて追加されたものです。

 

 参観路は、その千歳橋の周辺をぐるりと北から東へと回り込む形でつけられて、北側で上図の「楓橋」と呼ばれる木造の橋をわたって北側の中島「三保ヶ島」に渡ります。

 その「楓橋」の名は、橋を囲む樹林がすべて楓であることに因みます。秋にはこの一角が最も鮮やかな紅葉に包まれるそうです。

 

 そうして「三保ヶ島」に渡って、千歳橋を北から見下ろす高台に至りました。

「なるほど、苑路はここからまた下って、あの千歳橋を渡るわけか」と頷くU氏。

 

 しかし、今回はその苑路は非公開エリアとなっていて、つまりは千歳橋にも近寄れないし、南の中島の万松塢にも渡れないのでした。

 

 それで、千歳橋についても、三保ヶ島の高台上から見下ろして眺めるにとどまりました。上図はデジカメの望遠モードで撮ったものです。

 千歳橋は、御覧のように、切石積みの橋台に一枚石の橋板を渡して造られ、その東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架けられて、廊下橋のような外観に仕上げられています。宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰が立って輝いています。

 

「おい、この概説文によると千歳橋は二段階にわたって京都所司代が寄進したとあるぞ。最初は内藤信敦(のぶあつ)で石橋部分、二回目は水野忠邦で建物部分、てある。水野忠邦はあれだろ、天保の改革やってたから有名だな、老中ってイメージが強いけど、京都所司代も務めてたのか」
「らしいね。唐物趣味があったらしいから、あの中国風の建物の外観も頷けるな」
「なるほど・・・、中国かぶれだったなら、ああいう建物も分かるな・・・、内藤信敦てのは初めて聞く名前だな、知ってるか?」
「ああ、内藤紀伊守やろ。越後村上藩の藩主や。内藤家の家祖は徳川家康の異母弟とされる内藤豊前守信成(のぶなり)やな」
「えっ、それじゃあ、徳川家の一門衆になるのか」
「そう。譜代のなかでも血統が近いんで、ガチの一門衆方に属する。内藤豊前守は松平広忠の庶子なんで、家康とは幼少時から一緒で近臣として仕えてる。紀伊守信敦はその直系の子孫にあたる」
「ほう、名門じゃないか・・・」
「やから、紀伊守信敦も幕閣で寺社奉行、若年寄とかを歴任してる。確か京都所司代の在職中に亡くなってんの。それで千歳橋の寄進も、石橋の部分だけで中断しちゃったんかもしれん」
「なるほど、そういうことか・・・」

 

「すると、あの橋の建物部分ももとはワンセットのプランだったのが、内藤信敦の死去によって中断したわけで、これは当然、後任の京都所司代が引き継ぐことになるわけか」
「その筈やけど、後任は確か、浜田藩主の松平周防守康任(やすとう)やな。老中にまでなったけど、汚職が多かったし、幕閣の派閥抗争で失脚してる。京都所司代も半年に満たなかったから、前任者の残務を引き継いでも千歳橋の寄進までには手が回らんかったやろな」
「ふーん、しかし星野は、江戸期の各地の藩主の名前とかよう知ってるなあ、いつもの事だけど感心するぜ」
「いや、一時期な、室町幕府の統治機構を知るために、比較対象として江戸幕府の政治機構と諸藩各大名家の序列とかを研究してたんで、大体の大名家の系譜とかも覚えちゃったのよ」
「それでも、大した記憶力だよ・・・」
「いや、最近は年のせいで忘れかけてるけどな」
「で、話の続きをするとさ、松平周防守の次の京都所司代は?」
「水野越前守忠邦や。松平周防守と幕閣の派閥抗争をやってた張本人だよ。失脚に追い込んだのも忠邦やと言われてる」
「なる・・・、そういうことか、ライバルを蹴落として京都所司代の時も千歳橋の中断事業を引き継いで点数を稼ぐ・・・と、こういうわけか・・・、流石は出世欲にまみれた悪の権化の輩よの」
「悪の権化て、お前、けっこう水野忠邦に批判的やな・・」
「ああ、天保の改革のときに、水戸藩に法外な石高直しを迫って波乱を招いたからな」
「えっ、そうなのか・・・」
「その悪の権化が、あの千歳橋の建物を寄進したわけなんで、なんか見てると複雑な気分になるわな・・・」
「僕は、あの建物のデザインがさ、内藤紀伊守のプランニングのままなのか、それとも水野越前守が自分好みにアレンジしてるか、のほうが気になるな」
「ああ、なるほど、そういう問題もあるか・・・」

 

 話しながら、既に行ってしまった参観者の列を追って、高台の上に建つ上図の風格ある建物へと急ぎました。  (続く)